第13章 人間──I 進化
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カンジ
ヤーキーズ霊長類研究センターで管理されているコロニーで生まれたボノボ
生後すぐにマタタというという優位雌に引き取られた(さらわれた)
マタタはレキングラム(図形文字)を用いて人間とコミュニケーションしているところを教わっているところだった
レキングラムでは図形のシンボル一つが一語を表す
カンジはマタタの訓練を観察して学習していたことがあとでわかった
本格的にトレーニングを受けるようになったカンジは、300個を超す記号の意味を覚え、それを用いて人間に要求を伝えることができた
また、英語の話し言葉も数千語以上を理解できた
耳で聞いた英語をレキングラムに翻訳してみせた
さらにすごいのは義理の妹のパンバニーシャと、普通のチンパンジー語を用いて電話で会話もできたこと
2人は噂話をするのが好きだった(Lyn & Savage-Rumbaugh, 2000)
特に重要なのは、ボノボが視覚情報なしで聴覚情報による接触のみで互いに学び合えるという点である。カンジについてさらに詳しい情報はSegerdani, Fields, & Savage-Rumbaugh, 2005も参照
チンパンジーは二種に分かれている
パン・トログロディス(Pan troglodytes)
個体数が多く分布域も広い
「チンパンジー」は普通これを指す
パン・パニスクス(Pan paniscus)
個体数がかなり少なく、コンゴの森林の限られた地域にのみ生息するボノボ
以前「ピグミーチンパンジー」と呼ばれていたが、普通のチンパンジーより背丈が低いわけではない
ボノボはチンパンジーに比べてかなり細身
手足が長く、細い首に狭い肩幅、胸板も薄い
チンパンジーは屈強でたくましい体躯をしているがボノボはまったくそうではない
頭部もかなり小さく、口元や眼窩上隆起の突出がチンパンジーに比べて目立たない
近年最も注目を集めるのは行動の違い
ボノボが注目を集めるようになるまでは、人間の行動の進化を推測するには、チンパンジーをモデルにするのが最適だと考えられていた
特に、チンパンジーが組織だった計画的な方法で他の霊長類を狩ることが発見されてからは、その傾向が強まった(Boesch & Boesch, 1989)
この発見は男性は狩りに行くものだという物語にうまくつながったし、その物語から練り上げられた社会生物学的な説明にもピッタリはまっていた
女性は採集に行くというわけだ(Stanford, 1999)。 Lee & Devore, 1969は、人間の性質にいてのこの見解の原本的なものである
他にもこの物語にうまくあてはまったのは、チンパンジーの雄が暴力的だという事実である
個体としてのみならず群れとしても暴力的であり、隣接する群れのテリトリーに乗り込んで襲撃をしかける
この群れ間闘争がまた身の毛のよだつもので、人間の戦争の源泉ではないかと取り沙汰されたりしてきた(Wrangham & Peterson, 1996; Wrangham & Glowacki, 2012)
ボノボは類人猿のヒッピーと呼ばれたりする
ボノボは平和主義であるだけではなく、人間のどんなニンフォマニアでも敵わないほどセックスに没頭する
奔放なセックスはまた完全な乱交でもあり、性別にも無差別
ボノボは雌同士のセックスが特に盛んだが、ボノボの社会はその行動をもとにして組織化されているのだと考えている人も多い(Parish, 1994; De Waal, 1995; Hohmann & Fruth, 2000)
ボノボはチンパンジーよりも性的二型が顕著ではない
さらに、雄のボノボがサイズでどれだけ勝っていようが、セックスで結びついた雌のボノボたちの結束の固さがそれを圧倒してしまう(Parish, De Waal, & Haig et al., 2000)
養殖場のキツネの実験に触発されたブライアン・ヘアらは、チンパンジーとボノボの身体的・行動的相違について包括的な説明を提案した
ボノボは要するに自己家畜化されているのだという(Hare, Wobber, & Wrangham, 2012)
ヘアらの仮説によれば、ボノボは、今よりもチンパンジー寄りの状態を出発点として、従順性の高いものが自然選択されてきたのだという
ただし、ヘアらは従順性と低レベルの攻撃性とを同等のものとみなしているが、従順性の要素として同じくらい重要なのは、恐怖の低減である
実際、攻撃性の低下は主に恐怖反応が低下したことによる副産物かもしれない
ボノボもチンパンジーも、乳児と若者は同じように社交的かつ非攻撃的である
ところが、年齢が上がるにつれてチンパンジーは不寛容かつ攻撃的になっていく一方で、ボノボはおおむね若者レベルの社交性を維持する(Wobber, Wrangham, & Hare, 2010a; Wobber, Wrangham, & Hare, 2010b; Hare, Wobber, & Wrangham, 2012)
ヘアらは、ボノボでも、若者並みに低い攻撃性が選択の対象になったのではないか、そしてこの選択と関連して、形態的な面でのペドモルフォーシス(幼形進化)的な変化が引き起こされたのではないかと推論している(Hare, Wobber, & Wrangham, 2012)
ボノボがペドモルフォーシス的なチンパンジーであるという考えは、自己家畜化仮説よりも随分前に出てきたものであり、ボノボはペドモルフォーシス的ではあるが、自己家畜化は起きていないという可能性もある(Shea, 1986; Wrangham & Pilbeam, 2001)
とはいうものの、ヘアらの自己家畜化仮説は、ボノボにある程度のペドモルフォーシスが起こっていると予測している
ブライアン・シェイは、ボノボの腕、脚、胴体、頭骨にネオテニーの証拠を見出した(Shea, 1983)
頭骨のペドモルフォーシスの証拠は、今のところはせいぜい決定的ではないというところ(Penin, Berge, & Baylac, 2002; Shea, 1989)
いくつかの研究では、ヘテロクロニーの証拠は見出されなかった。ましてペドモルフォーシスやネオテニーの証拠も見つからなかった(Williams, Godfrey, & Sutherland, 2003; Mitteroecker, Gunz, & Bookstein, 2005)。頭骨にペドモルフォ ーシスの何らかの証拠を見出した研究もあるが、全体的なものではない。たとえばLieberman et al., 2007は神経頭蓋(脳を容れる部分)に中程度のペドモルフォーシスを、それより程度の低いペドモルフォーシスを顔面に見出した。しかし逆のパターンを見出した研究もある (Cobb & O'Higgins, 2004; Alba, 2002)
実際には、チンパンジーとボノボの頭骨にヘテロクロニー的な差異があるという証拠はわずかしかなく、ボノボの頭骨がペドモルフォーシス的だという証拠はさらに少なく、ボノボの頭骨がネオテニー的だという証拠はほとんどない(Lieberman et al., 2007; このタイプのヘテロクロニーは後形成あるいは後転位と呼ばれる)
ボノボの頭骨でペドモルフォーシス的な特徴の候補といえそうなのは、小さめの頭部、平たい顔面、そして低い眼窩上隆起だろう(Wrangham & Pilbeam, 2001)
頭部以外にはネオテニー的と言ったほうがいい特徴がある
多くのボノボには尾てい骨の当たりに白い毛が房になって生えているが、チンパンジーではこの毛は子どもにしか見られない(Hare, Wobber, & Wrangham, 2012)
この種の色素脱失は、家畜化により現れる表現型であり、従順性を対象とした選択の副産物としてしばしば現れる
ボノボの性差が減少しているのもまた、自己家畜化仮説の証拠とみなせるのかもしれない(Leigh & Shea, 1995; McIntyre et al., 2009)
ボノボでは、身体のサイズ面だけでなく、犬歯のサイズにも性差の現象が見られる(Leigh & Shea, 1995; ボノボの頭骨も、チンパンジーに比べて性的二型性が低下している)
しかし、ペドモルフォーシスにより自己家畜化が起こったことを示す最良の証拠は、行動面に見られる
子供時代から思春期を通じ、ボノボはチンパンジーよりも母親に依存している
チンパンジーと比べて自立していない
この点、ボノボはチンパンジーより人間の方に近いといえる(Hare, Wobber, & Wrangham, 2012)
この依存は、社会的なタスクでも非社会的なタスクでも、ボノボの認知の発達はチンパンジーに比べて遅いという事実と関係しているかもしれない(Brosnan, 2010; Rosati & Hare, 2012)
社会的なタスクに関して特に興味深いのは、社会的地位を示す手がかりに注意を向けるようになるのが、ボノボでは遅いこと
若いチンパンジーは、群れのメンバーで誰がより寛容で他のメンバーよりも食物をわけてくれそうか、即座に学ぶ
ボノボでは、そういった識別を学習して潜在的な攻撃者の前で自重するようになるのはずっと遅い(Wobber, Wrangham, & Hare, 2010a; Wobber, Wrangham, & Hare, 2010b)
この学習の遅れは恐怖反応の発達の遅延の反映かもしれない
また、ボノボは空間認知タスク、道具使用、因果関係の修得についても発達が遅い
どれも現実の社会を理解する上で、特に食物の獲得に関わる重要なことばかり(Gruber, Clay, & Zuberbühler, 2010)
ヘアらは、この認知の発達の遅れは情動(おそらく恐怖)の発達の遅れとつながっており、また子ども特有の情動を保持することこそがボノボをこれほど社交的かつ協力的にしているのだと考察している(Hare, Wobber, & Wrangham, 2012)
成体のボノボはたしかに、子供レベルの(高い)遊び好きと(低い)攻撃性を保持している(Hare, 2007; Palagi & Cordoni, 2012; Wobber, Wrangham, & Hare, 2010a; Wobber, Wrangham, & Hare, 2010b)
この仮説を検証するためには、二種の共通祖先についてもっとよく知らなければならないだろう
ボノボとチンパンジーは200万~1000万年前にそれぞれの進化の道を歩み始めたが、化石の証拠が不十分であることもあり、どちらが共通祖先に近いのかは明らかになっていない(Shea, 1989; De Waal & Lanting, 1997; Wrangham & Pilbeam, 2001はゴリラをアウトグループとした解析結果のみからボノボの派生形質を論証している。しかしこの種の系統推測で用いられる一般的な基準からすれば、そういった三系比較ははなはだしく不適切である。系統遺伝学でいうところの頑健性が欠けているのである)
そこで2つの仮説を考慮する必要がある
ボノボが共通祖先と比較してペドモルフォーシス的だ(後転位・ネオテニー・プロジェネシスのうち少なくとも一つが起こっている)という仮説
チンパンジーが共通祖先と比べてペラモルフォーシス的である(前転位・加速・ハイパモルフォーシスのうち少なくとも一つが起こっている)という仮説
人類は自己家畜化したのだろうか?
ヘアらは、かなりよく似た自己家畜化が人類の進化過程でも起こったとも提案している
要するに自己家畜化仮説によれば、イヌの家畜化の過程では、ボノボと人類の進化の両方にあった多くの重要な特徴が繰り返されたというわけだ
チンパンジーとボノボの共通祖先についてより、人間の祖先についてのほうがよくわかっているので、人類の進化は類人猿とイヌが収斂進化したのかどうか検証するための最善の手がかりとなる
人類の進化におけるペドモルフォーシス(ネオテニー)の役割を初めて示唆したのは、ドイツの人類学者アルベルト・ネフ(Naef, 1926; Bolk, 1926)
ネフは、チンパンジーと人間では幼児同士の方が大人同士よりもずっと似ていると記している
スティーヴン・J・グールドはこのアイデアをさらに詳しく掘り下げた(Gould, 1977; Montagu, 1955も参照)
グールドは、直立姿勢、まばらな体毛、小さな歯、大きな眼、大きな頭部といった人間ならではの特徴は、他の霊長類に比して発生の速度が遅い、すなわち遅滞の結果であると論じている(Gould, 1992, chap.7)
その後の研究により、事態はもっと複雑であることがわかってきた
哺乳類の系統樹中の霊長類の分枝
ボノボとヒト(Homo spiens)は霊長目に属している
これまで見てきた種の中では、齧歯類やウサギ類が霊長類に最も近縁
プレシアダピス(Plesiadapis)など、明白に霊長類だといえる最古の化石は5800万~5500万年(暁新世)のもの
プレシアダピスとその子孫は、カルポレステスなどの暁新世に生息していた古いタイプの霊長類と区別するために、「現代型霊長類」(または真霊長類)と呼ばれることもある。(Bloch & Boyer, 2002)
分子遺伝学的な証拠は、霊長類が出現した時代はもっと前の9000万~8000万年前だと示している(Perelman et al., 2011; これらの年代は、現生霊長類系統の分岐年代の推定をもとにしている)
霊長類は多くの面で哺乳類の中でも独特
嗅覚は他の大半の哺乳類に比べて貧弱だが、視覚は最先端を行き、特に奥行き知覚や色覚が優れている
形態的な必然として、顔は比較的平坦で、目は顔の前面にあって前向きになっている
齧歯類と同じく、霊長類も5本指という原始的な状態を保持している
だが齧歯類と違って、霊長類の手と足の親指は他の指と向かい合い(母指対向性)、枝を掴むことができる
現在でも大半が樹上性
また、他の哺乳類のような鉤爪ではなく平爪を持っており、肉厚の指の腹は柔軟で触覚が非常に鋭い
指紋で個体識別できるのは人間だけではない
ほとんどの霊長類にはこの皮膚隆線があり、そのパターンの多様さは雪の結晶なみ
霊長類の脳は体のサイズの割に大きい(Finlay & Darlington, 1995)
特にいわゆる知的な行動の大部分を支える大脳が、他の哺乳類よりもよく発達している(Jerison, 1973)
おそらくこのように進化の過程で脳が発達したことに関連するのだろうが、一般的に霊長類は他の同じサイズの哺乳類よりも成長が遅く長命(Charnov & Berrigan, 1993)であり、そのため学習する機会をたっぷりもてる
霊長類の大脳皮質の発達が、哺乳類のなかで最も社会的な目であることと関係していると考えている研究者もいる(Dunbar, 1998; Dunbar, 2003; Reader & Layland, 2002)
多くの霊長類にとっての学習とは、社会的な学習
霊長目の分枝はさらに二本の分枝、つまり亜目にわけられる
曲鼻猿類
最も原始的な霊長類(キツネザル、ガラゴ、ロリス、ポトなど)
先に上げた霊長類の典型的な特徴が一つあるいは複数欠けているものもいれば、そういった特徴があまり発達していないものもいる
直鼻猿類
サルや類人猿としておなじみのもの全部とわたしたち自身
曲鼻猿類と直鼻猿類が分岐したのは暁新世、6000万~5500万年前のこと(Bloch & Boyer, 2002(現代型霊長類)。Perelman et al., 2011は、分子(DNA) データを根拠にこれよりも早い年代を見積もっている)
約3500万年前(漸新世)にまた分岐が起こり、直鼻猿類は、新世界に生息することになる広鼻猿類と旧世界に残る狭鼻猿類に別れた(Schrago & Russo, 2003)
ヒトに関係するのは後者
3500万~3300万円前、当時は熱帯雨林だったサハラに生息していたエジプトピテクス(Aegyptopithecus)は、重要な移行種で、新世界ザルの特徴を多く持つ旧世界ザルである(Kay, Ross, & Williams, 1997)
特に重要なのは明らかに昼行性の果実食だったこと
前方を向く大きな眼を持ち、嗅覚は(曲鼻猿類に比べて)若干退化していた(Simons et al., 2007)
次の大きな分岐は約2200万年前に起き、旧世界ザル(ヒヒ、オナガザル、コロブス、マンガベイなど)とホミノイド(テナガザル、オランウータン、チンパンジー、ゴリラ、ヒト)が分かれた
プロコンスル(Proconsul)は移行種で、旧世界ザルとホミノイドの両方の特徴を有していた
後者に関連して最も注目すべきなのは尾を完全に失っていたことで、これはホミノイドに独特な形質(Ward, Walker, & Teaford, 1991)
「ホミノイド」「ホミニド」「ホミニン」という語の意味は過去現在を通じて安定していない
ここではホミノイドとは霊長目のヒト上科を指すものとする
現生のメンバーにはテナガザル、オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボ、ヒトが含ま荒れる
つまりホミノイドは類人猿とほぼ同義
1900万~1600万年前、ホミノイド(ヒト上科)の枝からまずテナガザルが分かれ、その残り(オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボ、ヒト)はホミニド(ヒト科)としてまとめられている
その後、オランウータンが1500万~1300万年前に分岐し、次にゴリラ(900万~700万年前)、そして最後にチンパンジーとボノボが分岐した(700万~500万年前)
ヒト、ボノボ、チンパンジーはヒト亜科を構成し「ホミナイン」と呼ばれる
ヒトとその系統に属する絶滅したメンバーは「ホミニン(ヒト族)」と呼ばれる
他の霊長類の大半と同じく、ホミノイドもアフリカの密生した熱帯雨林で進化したが、約1600万~1400万年前頃、気候の変化により乾燥が進むにつれ、開けた疎林に移動するものもいた
ホミノイドが最初にアジアに移住したのもこの頃のこと(Begun, Ward, & Rose, 1997)
Begun, 2005は、アジアに最初に霊長類が出現したのは1600万~1500万年前と見積もっている
Stewart & Disotell, 1998はDNAデータを根拠にそれより早い年代を見積もっている
ホミニドからホミニンへ
1950年のこと、進化の「現代的総合」の立役者の一人であるエルンスト・マイアが、ある重要な発表をコールド・スプリング・ハーバー研究所で行い、それが人類の起源の研究を何十年も遅らせることになった(Mayr, 1950)
マイアの無知な発表が人類学に与えた負の影響については、Tattersall & Schwartz, 2009でよく議論されている
マイアは人類の化石を直接研究したことなどなかったのに、その時点までに発見されていた化石のすべてを、無理やりまとめて三種に押し込めてみせ、その三種が一直線につながるとした
その結果、人類の進化について、はしごを一段一段昇るように直線的に進んできたというイメージが作り上げられた
幸い、人類学者達もついにマイアに授けられたくびきから脱することができた
重要なのは過去700万年を通じてずっと、ネアンデルタール人が絶滅するまでは、常に複数種のホミニンが共存していたこと
残念ながら、人類とチンパンジー・ボノボの系統が分岐したと考えられている時期の化石記録はきわめて乏しい
その時期、東アフリカにはかなり異なる二種が生息していた
サヘラントロプス・チャデンシス(Sahelanthropus tchadensis)
7000万~6000万年前
一個の頭骨のみ発見されている
この頭骨はチンパンジーにも似ていないし、特にホミニンっぽいわけでもない
脳のサイズはチンパンジー程度だった(Brunet et al., 2005)
オロリン・トゥゲネンシス(Orrorin tugenensis)
頭骨以外にも体の骨格も多少は見つかっている
オロリンは二足歩行をすることがあったかもしれない(Richmond & Jungers, 2008)
しかし、どちらもおそらく地上よりは樹上で過ごす時間の方が長かっただろう
最初期のホミニンとして三番目の候補者、かつ化石の証拠が最も得られているのは、アルディピテクス(Ardipithecus)
通称「アルディ」
アルディには実際には二種
アルディピテクス・ラミダス(Ardipithecus ramidus)
最も注目されているのはラミダスであり、通称「アルディ」は通常はラミダスを指す(White et al., 2009など)。2009年には「サイエンス」のある号が丸ごとアルディ特集だった
アルディピテクス・カダッバ(Ardipithecus kadabba)
アルディは580万~440万年前頃に東アフリカに生息していた(Haile-Selassie, 2001; Haile-Selassie & WoldeGabriel, 2009)
これは人類とチンパンジーの系統が分岐したあとのこと
アルディの体格はチンパンジーくらいで、脳のサイズもチンパンジー大だった
形質の組み合わせが興味深く、上半身は類人猿によく似ている一方で、下半身はホミニンの方に近かった
アルディの二足歩行についてはLovejoy et al., 2009を参照。アルディの頭骨は類人猿とホミニンの両方の特徴をもつ(Suwa, Asfaw, et al., 2009; Suwa, Kono, et al., 2009; Coppens, 2006)
地上でも樹上と同じく快適に過ごせたようだ
サヘラントロプス、オロリン、アルディピテクスのうち、最古のホミニンにふさわしいのはだれなのか、執筆時には意見は割れている
大半の人類学者はアルディが最適だと考えているようだだが、かなり喧嘩腰の論争が続いている
7000万~400万年あたりの化石がもっと発見されなければ、最終的な評価を下すのは難しいだろう
400万年前から現在までは、化石の記録はもっと充実している
最初はアウストラロピテクス属(Australopithecus)で少なくとも8種
アウストラロピテクス・アナメンシス(Australopithecus anamensis)
最古のもの(420万年前)(M. G. Leakey et al., 1998; Macho et al., 2005)
アウストラロピテクス・アナメンシスの食性に関する推論についてはGrine, Ungar, & Teaford, 2006を参照
頭骨に関して、アナメンシスはまったく類人猿的だが、完全に二足歩行性であり、人間と同じように直立して歩いていた
アナメンシスは森林環境に棲んでいた
木々の間を縫って歩き、大型捕食者の気配が少しでもあれば、木に登って逃れたであろうことは間違いない
歯から、食物のほとんどは穀物やナッツ、根、果実だったと考えられる
アウストラロピテクス・アファレンシス(Australopithecus afarensis)
ルーシーという女性の化石で有名
この化石がルーシーと名づけられたのは、彼女を発見した日に発見者がビートルズの《ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド》を聴いていたからである (Johanson & White, 1979)
ルーシーとその一族は約380万~300万年前に、東アフリカの開けた疎林に生息していた
おそらく、地上と樹上の両方で、果実や葉、その他比較的柔らかい植物質を食べていただろう
しかし、ルーシーの食事には肉も含まれていたことが最近発見された
さらにアファレンシスのメンバーは石器を用い、骨や皮から肉をこそげ落としたり、太い骨を割って栄養分の多い骨髄を取り出したりしていた(McPherron et al., 2010)
ということは、アファレンシスはおそらくホミニンとして初めて肉を食い、初めて道具を用いた
道具の一部を携えて移動したかもしれない
この発見以前は、石器が最初に作られたのは約150万年前のことであり、かつ道具を作ったのはわたしたちのホモ属(Homo)のメンバーだけである、というのが大方の意見だった
アウストラロピテクス・セディバ(Australopithecus sediba)
地上を歩いた最後のアウストラロピテクスと考えられる
190万年前に東アフリカに生息
アウストラロピテクスはもっと速く死に絶えてしまったと考えられていた
また、これはホモ属の最初のメンバーが出現したのとほぼ同じ頃(Berger et al., 2010)
アウストラロピテクス属の他の種と同様、セディバは人類的な特徴と類人猿的な特徴の両方をモザイクのように併せ持っている
だが、同種のメンバーよりは、人類的な特徴を多く備えていた
特記すべきは腰椎の湾曲度合いが強くなっていることで、これは同属のそれ以前のメンバー以上に二足歩行の傾向が強くなったことを示している
また、手の骨に変化が見られるのも重要で、手先の器用さが増大し、道具をもっとよく使えるようになったことが示唆される(Kivell et al., 2011; 脳についてはCarlson et al., 2011を参照)
ところがセディバの脳は、アウストラロピテクス属のなかでは大きな方ではあるものの、この属の範囲内に収まるものだった
ホモ属の最初のメンバー
わたしたちの属するホモ属はアウストラロピテクス属の時代の終わり頃に進化してきた
ホモ属の二種(190万~140万年前のホモ・エルガステル(Homo ergaster)と180万~4万年前のホモ・エレクトゥス(Homo erectus))が出現した年代は、アウストラロピテクス・セディバの生存年代とほぼ重なっている(Pickering et al., 2011)
ホモ・ハビリス(Homo habilis)
上記二種よりも生存年代が古く、ホモ属に分類される事が多い
ホモ・ハビリスの分類的な位置づけは論争中である。多くの研究者はホモ・ハビリスをホモ属に入れるのは適切ではないと考えている (Wood & Collard, 1999; Tattersall & Schwartz, 2009など)
「ハビリス」は「器用なヒト」
この種は石器を作った最初のホミニンだと長らく考えられてきた(L.S. Leakey, Tobias, & Napier, 1964)
ハビリスが石器作製技術を発展させたのは確か
ホモ・ハビリスが作ったのはオルドワン石器として知られるもので基本的に2つのタイプが有る
剥離石器
鋭利な剥片は皮から肉をこそげ落とすのに用いたと思われる
石核石器
多数の剥片を打ち欠いたあとに残った石核はチョッパーと呼ばれ、狩りや争いを解決する際に武器として用いられた(Wynn & McGrew, 1989)
ハビリスの脳は、アウストラロピテクス属の脳に比べて50%ほど大きかった(Tobias, 1987)
ハビリスの顔もそれ以前のホミニンより平らだったが、原始的な特徴も多く保持していた
体格は現代人の半分に満たず、類人猿のような短い下肢と長い腕を備えていた
肉が食事の重要な部分を占めてはいたが自身もサーベルタイガーなど多くの捕食者の重要な獲物になっていた
ホミニンの中でも、ホモ・エルガステル
「エルガステル」は「働くヒト」
ホモ・エルガステルとホモ・エレクトスを単一の種とみなす意見もある(たとえばBogin & Smith, 1996)
この観点ではホモ・エルガステルはホモ・エレクトスのアフリカ産の亜種である
本書は両者が別種であるというタッターソルの意見 (Tattersall, 2007など)に従っている
トゥルカナボーイ
ほぼ完全な標本
150万年前
長い下肢やヒト的な胸部など、多数の進化した特徴が見られる
トゥルカナ・ボーイとその一族は、おそらく長距離を走ることができる優秀なハンターだっただろう(Tattersall & Schwartz, 2009)
ホモ・エルガステルの特徴で最も際立っているのは身体のサイズで、現生人類に匹敵するほどの大きさ
トゥルカナ・ボーイの年齢の見積もりは様々で、骨と臼歯の発達度合いをもとに、死んだ時の年齢は8~12歳だったと推定されているが、そのとき、すでに身長160cmだった
ホモ・エルガステルは暑い気候にふさわしく、背が高くほっそりしていた
トゥルカナ・ボーイはおそらく体毛が少なめで、たっぷり汗をかいたことだろう(Bramble & Lieberman, 2004; 発汗と放熱についてはCarrier, 1984を参照)
他の進化した特徴としては、以前のホミニンに比べて性的二型性が目立たなくなっている事が挙げられる
アウストラロピテクスの性的二型についてはCollard, 2002; Gordon, Green, & Richmond, 2008を参照。初期のホモ属における性的二型性の低下についてはFrayer & Wolpoff, 1985を参照
男女間のサイズの違いはアウストラロピテクスより小さくなっているが、それでもなおヒトよりは差が大きい
ホモ・エルガステルは発達した石器作製技術を駆使していた
彼らの作ったものはアシューリアン石器と呼ばれ、以前のオルドワン石器よりも刃部が長かった(たとえばAmbrose, 2001)
また、アシューリアン石器のハンドアックス(握斧)は左右対称なのが特徴
しばしば骨や枝角といった柔らかめの素材を用いて仕上げられ、さらに精度の高いものとなっていた
出アフリカ
アフリカから出ていったホミニンは複数いるが、そのなかで先頭を切ったのがホモ・エレクトス
ホモ・エレクトスはついにはアジア一円に広がった
アフリカ以外では、ジョージアのドマニシの小さな町にある遺跡でホミニンの最古の化石(約180万年前)が発見された(Vekua et al., 2002)
ドマニシ原人には、ホモ族としては原始的な特徴が多く見られ、アウストラロピテクスからの移行的な状態であることを示している
ホモ・エレクトスはユーラシア大陸で多数の異なる集団に分化した
その分類的位置づけについては同意は得られていない
最初に発見されたジャワ原人(160万年前)がアジアのホモ・エレクトスの原型である
ジャワ原人の発見者たちはジャワ原人をホモ属に入れず、ピテカントロプス(Pithecanthropus)という新属に入れた(Dubois, Trap, & Stechert, 1894)
北京原人(80万~70万年前)はそれよりあとのアジア系統の代表種(Weidenreich, 1935)
近年、インドネシアのフローレス島で小型のホモ属の化石が発見された
俗に「ホビット」とも呼ばれるこの化石は、ホモ・エレクトスの系統の最後のものである可能性もある
だが、発見された標本が形態学的にホモ・エレクトスとかなり異なっていることから、ホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)という新種とされた(Brown, 2004)
「ホビット」が発見されると、その分類的位置づけをめぐって人類学界は大騒ぎになった。小頭症の現代型人類だと主張する向きもあったが、その見解はもはや支持されていない
小型であること以外にも注目したいのは、1万4000年前まで生存していたこと
ホモ・エレクトスがとっくの昔にホモ属の他のメンバーに取って代わられたと考えられていた年代
実際、それよりもかなり前から、フローレス島の近隣にはホモ・サピエンスが広く生息していた
ヨーロッパ最古のホモ属の化石(120万~110万年)のいくつかは、ホモ・アンテセッサー(Homo antecessor)という種に入れられている(Carbonell et al., 2008)
この種がホモ・エレクトスとホモ・ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis ハイデルベルク人)をつなぐものだと考えている人もいる
ホモ・ハイデルベルゲンシスは、それ以前のホモ属の種と比較して脳容積の増大が顕著なことで有名な種(Rightmire, 2004)
ホモ・ハイデルベルゲンシスはまた最初の汎存種(2大陸以上にまたがって分布する種)であり、ユーラシア大陸とアフリカ大陸に分布した(Tattersall & Schwartz, 2009)
ホモ・ハイデルベルゲンシスはアフリカ起源であるが、前のホモ・エレクトスと同じく、アフリカから出ていった種
この種はついにはアフリカのみならずユーラシア全土に拡散するに至った
ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)とホモ・サピエンスはデニソワ人と呼ばれる他の種と同様に、ホモ・ハイデルベルゲンシスから進化してきたと考えられている
まず最初に、ホモ・ハイデルベルゲンシスの系統の中で、おそらくヨーロッパに移動した集団からネアンデルタール人が分岐した(60万~35万年前)(Finlayson, 2005)
Rightmire, 1998によれば、ヒトとネアンデルタール人はホモ・ハイデルベルゲンシスからほとんど同時に種分化した
約20万年前、ホモ・ハイデルベルゲンシスのなかで、アフリカに生息していた集団からからホモ・サピエンスが分岐した
ホモ・サピエンスの出アフリカは7万~6万年前に始まった
ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの伸長は同じくらいだったが、前者の方が体重が重く体格がたくましかった
脳のサイズは出生時点では同じくらいだったが、大人ではネアンデルタール人の方がホモ・サピエンスよりも脳が若干大きかった(Ponce de León et al., 2008)
大人の脳を比べるとネアンデルタール人のほうが大きいのは、ネアンデルタール人のほうがヒトよりも成長が速いためである (Rozzi & de Castro, 2004; Gunz et al., 2010も参照)
人類進化におけるヘテロクロニー
人類進化においてヘテロクロニーの果たした役割
ヘテロクロニーは発生・発達過程で形質発現のタイミングや速度が変わることであり、いくつかのタイプがあるが、発生過程の変更による進化には他にも様々なものがあり、ヘテロクロニーはその一部に過ぎない(たとえば Hall, 2003を参照)
人類進化のすべてがヘテロクロニーによるとするのは無理があり、大きな間違い
とはいうものの、人類進化の過程でヘテロクロニー的な変化が起こったという証拠はたっぷりある
ただし、グールドが主張するほど大量にあるわけではない
自己家畜化仮説を考慮に入れれば、特に気になるのはペドモルフォーシス(幼形進化)の証拠
さらに、ネオテニー、つまり発生速度の低下についても注目したい
チンパンジーやボノボに比べて、人間はかなり未発達な状態で生まれてくるのは確か
人間のほうがボノボやチンパンジーよりも妊娠期間がやや長いことを考えると、新生児がこのようになるのはとりわけ印象的(Wallis, 1997; チンパンジーの妊娠期間は平均 225日である)
人間の胎児の神経と筋肉の発達は、わたしたちに最も近い親戚に比べて、減速されている(ネオテニーが起きている)
幼児期についても同様
たとえば、他の類人猿に比べて骨の発達(骨化)が顕著に遅れている(Zollikofer & Ponce de León, 2010)し、成長も遅滞している(Bogin, 1997)
人間でもチンパンジーでも、思春期には急激に身長が伸びる「成長スパート」が見られるが、これはチンパンジーの方が低い年齢で開始する(Walker et al., 2006)
注目したいのは、トゥルカナ・ボーイ(ホモ・エルガステル)とホモ・エレクトスの成長スパートの開始時期が(骨の発達から判断して)人間よりもチンパンジーの方に近いこと(Bogin & Smith, 1996; Zolliker & Ponce de León, 2010)
トゥルカナ・ボーイの成長率はアウストラロピテクスにも近い(Tardieu, 1998)
ナリオコトメ遺跡で発見された別のホモ・エルガステルの化石の成長率についてはClegg & Aiello, 1999を参照
また、人間の思春期は最も近縁なチンパンジーやボノボに比べると引き伸ばされているので、性成熟に達する年齢は人間の方が高いことになる
この点で、私達は家畜化された動物とは確実に違っている
家畜では、ネオテニーだけではなく、発生・発達の終了が早まる加速(プロジェネシス)もペドモルフォーシスに貢献している
体の発達全体でネオテニーが起きていることには重要な意味があるのだが、詳細を検討する段になると、話はもっと複雑になる
ここで、機能解剖学的な面における明らかに人間的な特徴に関して、ネオテニーを検討してみたい
二足歩行
大型類人猿では、成体よりも幼児のほうが二足歩行をする頻度が高い
ネフとグールドが二足歩行による移動をネオテニー的な特徴としたのはそのため
しかし、人間の二足歩行には明らかに非類人猿的な複数の適応が関係している
たとえば、ヒトの足は類人猿の足に比べてハイパモルフォーシス(過形成)である(Lockley & Jackson, 2008)
400万年以上前のアルディピクスにそういった変化の一部が既に現れていた
たとえば、アルディがナックル・ウォーク(類人猿の行う四足歩行で、拳を軽く握って指の中節骨の背面に体重をかけて歩くこと)をしていたという証拠はない(Lovejoy et al., 2009)
骨板の変形、腰椎の湾曲度合いの増大、下肢の伸長、足の構造の変化などがその特徴だが、これはアウストラロピテクスでさらに発達した
ホモ・エレクトスが登場する頃には、二足歩行による移動はほぼ人間と同様の段階になっていた(Wang et al., 2004)
二足歩行に関連する解剖学的な変化の中で特に目立つものは、骨板で見られる
骨板の変化はネオテニー、あるいはペドモルフォーシスの他の要素を示しているのだろうか?
否
最近の研究によってまったく逆であることが示唆されている
人間の幼児の骨盤は、アウストラロピテクス属の成人の骨盤によく似ている
そしてアウストラロピテクスの成人の骨盤はチンパンジーやボノボの骨盤によく似ている(Berge, 1998)
人間の骨盤は、人類と人類に最も近縁な類人猿の共通祖先の骨盤と比べて、ペラモルフォーシス(過成進化)的
実際、人類の骨盤の進化には、祖先の発生過程に新たな発生過程が付け加えられて発生・発達の終了時期が遅くなる「ハイパモルフォーシス(過形成)」、発生速度が上昇する「加速」、発生開始が早まる「前転位」というペラモルフォーシスの3つの要素すべてが見られるという証拠がある(Berge, 1998)
二足歩行に関するその他の解剖学的な変化は、頭骨が脊柱の真上に位置するようになったのに関係している
頭骨の後頭部には後頭顆という特記が合って、脊柱前端の頚椎と関節をなしているのだが、人間ではこの後頭顆が著しく変形している
直立二足歩行をする私達の顔が前方を向いているのはそのため
人間の後頭顆は類人猿の幼児とはまったく似ていない(Minugh-Purvis & McNamara, 2002)
わたしたちの長い下肢と大きな足もまたペラモルフォーシス的であり、ペドモルフォーシス的ではない特徴
脳についてはどうだろうか?
胎児の発生中および生後数年間において、人間の脳の成長は他の類人猿に比べてきわめて速い(加速されている)
しかし脳の成長が速いといっても、成人の脳のサイズで比べるなら、実際のところはチンパンジーやボノボの成長よりは遅い(Leigh, 2004; 他のホミニドと比較したヒトの脳の成長率についてはNeubauer & Hublin, 2012を参照)
では私達の脳の発達は実はペドモルフォーシス的なのだろうか?
そうではなく、成人の脳のサイズで比べた時に私達の脳の成長が類人猿よりも遅いのは、人間の成人の脳が非常に大きいから
それは成長が急速であるからだけでなく、その成長速度が長期間維持されるからでもある
これはペラモルフォーシスの一つであり、ハイパモルフォーシス(発生・発達の終了時期が遅いこと)
ボノボ・チンパンジーと人類が分岐したあと、人類の系統が進化していく間に発生過程が変化したのだが、変化は徐々にかつ一定の速度で起こったわけではない
むしろ、ある時期に比較的急速に変化し、それに続いて安定した状態が長期にわたって続くというパターンが特徴
アウストラロピテクスの脳はチンパンジー並みだった
ということは、分岐してから500万年間、人類の系統で脳のサイズはほとんど変化しなかったわけだ
ホモ属の最初のメンバー(ハビリス、エルガステル、エレクトス)の脳は、(加速あるいはハイパモルフォーシス、あるいはその両方によって)アウストラロピテクスの脳よりも顕著に大きくなっていた
しかしその後、ホモ・ハイデルベルゲンシスの出現までは再び長期にわたって安定した状態が続いた
その次に目立った変化が起こったのは、50万年前にネアンデルタール人が登場したときのこと
人類の脳の進化にはまた、進化の保守的な面と、すでにあるものをいじくりまわしてやりくりする(ティンカリング)という自然選択の性質とがうまく映し出されている
二足歩行の成立が脳の増大よりもかなり前に起こったという偶然的事実は、人類の進化に重大な結果をもたらした
その一つが「出産のジレンマ」である(Rosenberg & Trevethan, 1995)
効率的な二足歩行には幅の狭い骨盤が必要
一方、脳のサイズが大きいために新生児の頭部も大きい
脳が増大するより前に骨盤の進化が起こったために、骨盤のサイズのせいで新生児の脳のサイズが制限されることになった
それでもなお新生児の頭は大きく、骨盤の幅が最大になる箇所にあわせて四分の一回転するという危ない過程を経なければ、出てこられない(Rosenberg & Trevethan, 2002)
人間の出産は、他の現生の類人猿よりもずっと困難で危険
類人猿では新生児の頭部に対して骨盤のサイズに十分ゆとりがある
アウストラロピテクスでもそうだった
ホモ属の初期のメンバー(エルガステルやエレクトスなど)は、こと出産に関しては中間的な状態だったろう
骨盤は狭く、脳はアウストラロピテクスよりも大きかったが、同属の後のメンバーよりは小さかった
だが、脳の大きなネアンデルタール人にとって、わたしたちと同様に分娩は何かと困難なものだったと考えられる(Ponce de León et al., 2008)
もちろん人類の脳はサイズの増大以外にも多くの点で進化している
チンパンジーの系統と分岐して以来、様々なタイプの神経再構成が起こっているのは疑いないが、そういった変化は化石記録に痕跡を残さない
近年の研究により、わたしたちの脳の発達には、チンパンジーやボノボと比較していくつか興味深い相違点があることが見出された
特筆すべきは、その相違点のいくつかが、人間の脳にネオテニー的なパターンがあることを示していること
大脳新皮質、特に前頭葉の最前方の部分である前頭前野に注目しよう
計画や高次機能など、わたしたちの最も高度な知的能力一般に関わっている部分
大脳皮質の典型的なニューロン
軸索を通して、すぐ隣のニューロンへ、時には遠く離れたニューロンへ、電気信号が伝えられる
軸索の伝導速度はミエリンという物質で左右される
ミエリンは軸索を覆う髄鞘という構造に含まれる物質で、絶縁体として働いて電気信号が漏れるのを防ぎ、電気信号が速く伝わるのを助ける
ニューロンの髄鞘が形成されるタイミングが発生過程では重要
髄鞘が形成されることによって電気信号の伝わる速度が速く効率的になる
一方、髄鞘形成前には軸索の自由度が高く、他のニューロンとの接続を「試して」みることができるが、形成後には自由度(可塑性)が低下する
このようなニューロンの可塑性が学習を容易にする
髄鞘形成後には可塑性がかなり低下し、それとともに、子供の時に備わっていた新しい情報を吸収する能力も失われる
そういうわけで、ニューロンの軸索に髄鞘が形成されるのが、チンパンジーよりも人間の方がかなり遅い、というのは注目に値する(Miller et al., 2012)
そして、これは認知に関わる脳の特定部位においてネオテニー的な発達が起きているという一例なのである
脳のこの部分のネオテニー的な発達は髄鞘形成だけではない
特定の遺伝子が活性化され、その遺伝子がコードするたんぱく質が合成されることを遺伝子発現という(→付録7. エピジェネティクスという次元)が、幹細胞をもとに細胞が分化して、特定のタイプの細胞(たとえば大脳皮質のニューロンなど)になっていく過程で、発現の程度が変化する遺伝子がある
この変化を手がかりにして、遺伝子発現パターンにおいてヘテロクロニーが起こっていないかどうかを探索する事が可能
前頭前野ではそのようなヘテロクロニーの特に印象的な事例が起こっている
チンパンジーと比較して、人間では神経の発達に関する多数の遺伝子の発現にヘテロクロニーが起こり、発現のタイミングがずれている
しかも、それらの遺伝子すべてについて、人間の成人における発現パターンはチンパンジーの幼児の発現パターンに似ている(Somel et al., 2009; 霊長類全体の比較はGiger et al., 2010も参照)
脳の成長が加速されているにも関わらず、少なくとも前頭前野では、チンパンジーの比べて発達速度が遅い(ネオテニー)のだ
ただし、このネオテニー的な発現パターンの変化は脳全体に見られるわけではない
尾状核という大脳の別の部分では、遺伝子発現にネオテニーが起こっているという証拠は得られていない
ヘテロクロニー、遺伝子発現の調節、自己家畜化
人類の系統は、700万~500万年前にボノボ・チンパンジーの系統から分岐した
35年以上前のことになるが、人間のタンパク質とチンパンジーのタンパク質がほぼ同一であることが判明し、その発見をもとに次のような提案がされた
人間とチンパンジーが進化によって大きく分岐したのは、遺伝子自体の変化よりも遺伝子の発現における変化に負うところが大きいはずだ
つまり、DNAの塩基配列のうち、タンパク質をコードする領域に起きた突然変異ではなく、非コード領域に起きた突然変異が鍵を握っているというのである(King & Wilson, 1975)
この発想は、コード領域だけではヒトとチンパンジーの分岐が説明できないという認識によるところが大きい(Wilson, Carlson, & White, 1977)
このアイデアは物議を醸したが、支持者は着実に増えていき、大勢が合意する共通見解のようなものになっていった
ヒトゲノムが2003年、チンパンジーゲノムが2005年に解読完了したことにより、DNAの直接比較が可能となり、最近の研究結果は明らかにこの共通見解を後押ししているように見える
ただし、非コード領域の重要性が過剰に強調され過ぎだと声高に異議を唱える人達もいる
ヒトとチンパンジーの分岐におけるDNAの非コード領域の重要性を示すゲノムの証拠についてはSmith, Webster, & Ellegren, 2002を参照。組織特異的に発現するFOXP2遺伝子のエンハンサーとなる非コード領域についてはCarroll, 2008を参照。特に非コード領域のシスエレメントの必要性に関する理論的議論はCarroll, 2005を参照。当然のことながらCoyneはこのエヴォデヴォ的な見方に異議を唱えている(Coyne, 2005; Hoekstra & Coyne, 2007など)。Hoekstra & Coyne, 2007への反論はCraig, 2009を参照
私は異議ありサイドに若干共感している
タンパク質コード領域の塩基配列(遺伝子)が転写・翻訳されて合成されたタンパク質の中には、他の遺伝子の発現に影響を与えるものが多いからだ
これらコード領域の遺伝子の転写・翻訳により、ある種の転写因子として働くタンパク質が合成される。この転写因子は、非コード領域にある調節領域に結合して、DNAからmRNAへの転写を調節するものである
つまり、非コード領域だけではなくタンパク質コード領域も遺伝子発現を調節している
この論争に限らず、1970年代からこのこかた、進化的分岐の説明は遺伝子発現の変化を強調する方向へシフトしているように思われる
この状況は、進化生物学で発生が注目されるようになったことと符合している
というのも、複雑な種の進化には発生過程を弄って変更すること(ティンカリング)が大きく絡んでいる
発生過程の変更のうち、ある重要なカテゴリーに属するのがヘテロクロニー
人類が他の類人猿から分岐して以来、いくつかの遺伝子の発現が改変され、その結果、こういったヘテロクロニー的なずれが特に脳で引き起こされた
浮かび上がってくる図式は、グールドが提案したような、ネオテニーだけでかたがつくようなものではない
ペドモルフォーシスの範囲ですべてが説明できるわけでもない
人類の進化にはペドモルフォーシスと同じくらい、加速を含むペラモルフォーシスも関わっているという証拠がある
実際、直立二足歩行や巨大な脳など、わたしたちとチンパンジーやその他の類人猿とを大きく隔てている形質は、ペラモルフォーシス的なのである
それにもかかわらず、人類が進化してくる過程でペドモルフォーシスを引き起こすヘテロクロニー的な変更が起こったという証拠は山のようにある
たとえば、脳では部分的に髄鞘形成が遅くなっている
前例のないほど高いわたしたちの学習能力におそらくそれが関係している
また、類人猿に比べて人間の性差が縮小しているのも興味深い
性差の縮小は200万年前に始まったようだ(McHenry, 1994)
Plavcan & Van Schaik, 1997, Reno et al., 2003によれば、この性差の縮小が始まったのはもっと早く、アウストラロピテクスですでに起こっていたという
家畜化された動物で見てきたが、ネオテニー的な変化が特に雄で顕著に起こって雄の外見が雌に近づき、その結果、性差が縮小したというのがよくある話
家畜では、体全体のサイズの他に犬歯の長さでも性差の縮小がかなり目立っている(Plavcan & Van Schaik, 1997)
ボノボを含む他の大半の類人猿の雄に比べると、人間の男性の体はかなり貧弱だ
類人猿のうち、性差という点で人間が最もよくにているのは、最小限の性差しかないテナガザル
だからこそ注目したいのは、テナガザルが筋金入りの一夫一妻主義者であり、そのため、一夫多妻のゴリラやオランウータン、乱婚的なチンパンジーやボノボと比べて強い性選択を受けていないこと
全体的に、多くの家畜化された動物に比べ、人類の進化についてはネオテニーの証拠はかなり少ない
イヌの進化ではネオテニーの証拠がかなり見つかっているのだが、それに遠く及ばない
だからといって自己家畜化仮説が打ち捨てられてしまうわけではないが、イヌと人間の収斂進化が大袈裟に言うほどでもなかったという可能性が、この事実によって示唆されるのは確か
しかし、自己家畜化仮説によって予測される最も重要な収斂進化は、行動や情動に関するもの
人間がチンパンジー・ボノボとの共通祖先から進化してきた過程で、情動面でそれと同様のことが起こったのだろうか?
人間はその意味で家畜化されているのだろうか?
もしそうなら、いわゆる人間らしさというものは「チンパンジーらしさ」よりも「ボノボらしさ」の方に似ているのだろうか?
次章はこの疑問をテーマ
→第14章 人間──II 社会性